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曽我八幡宮の手水舎の横には、神社の創建経緯が刻まれた石碑があります。

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ただ、この石碑の文字は経年によりとても読み辛くなったため、新たにこの碑文を写した看板を境内に設置してあります。

そして以下が、その碑文を現代語訳した文章です。


曽我八幡宮碑文(現代語訳)


曽我八幡宮 碑文の内容

【御祭神】
 応神天皇

【相殿】
 曽我十郎祐成 (兄)
 曽我五郎時致 (弟)
 虎御前(兄十郎の恋人)

右三柱を御神体としてお祭りしてあるが、その源に遡って、この神社の始まりの由来をひもといてみると、八幡宮の尊い像(御神体)は、源頼朝の命によって僧文覚が刻み、伊豆の蛭ヶ小島に流されていた頼朝公に贈ったのであるが、右大将(頼朝公)の信仰が大変深く、常にこれを迎え奉っていた。

その後、天下(日本全国)が源氏の手に入ると頼朝は、秩父(畠山)重忠が忠実に勤め、彼一人だけに物事を任せても間違い無い良い家臣であることを知り、特にこの神像を託し与えて、重忠を戒めて、「これは源氏の家に統道していく(代々伝えていく)べき霊像(尊い像)であり、天下(全国)を平和に、そして盛んにする神の霊である。故に、その天性や運命を守り、満前(前途に満ちている)の困難を、うち払うことは疑いなし。必ず信仰を怠ってはならない」と述べたのである。

重忠は命を受けて、この神像を尊び奉って欠けるところがなかった。

その後、曽我兄弟が相浜(相模国海岸 = 由比ヶ浜か)において難にあったとき、重忠は、兄弟のために百方救いの手をのべ、その命を救うことができた。このとき、重忠はさらに兄弟を戒め、この神像を兄弟に奉持させたとき、兄弟はこれを尊び敬い、以て、自分たちの守り神とした。兄弟が、親の仇を討ち、殺されたとき、河津氏の世継ぎはなかった。

その後、鎌倉で、さらに丹波法眼に命じ、曽我兄弟の像を彫らせ、これを摂津源氏の遺された家臣 渡辺主水(渡辺競の遺した子供)に与えた。主水は、曽我兄弟が仇を討ったあと、兄十郎祐成の魂を埋めて、この地に神殿を建て、御神体と兄弟の木像とを併せてこれを祭った。頼朝は、大いにこの神像を信仰し、兄弟の孝心が強くはげしいのに感心し、神社の領地としていくらかの土地と、安綱のきたえた大刀一口(ひとふり)を添えて神の御意志を休められた。そのときの文に

「曽我神領の寄付の事

駿河国富士郡北山庄厨并びに假宿(本陣の地名)、右の件について、御園=郷園は、頼朝が命じ、祐成 時致の義勇に感じて永く寄付するところである。今、このことについて妨げがあってはならない。よって後日のため、命令し、文書をしるし、これを与えること、以上の如くである。

建久8年9月28日 源朝臣(頼朝のこと)花押」


とあるが、これら古文書は、天正元年12月(1573年)、不幸にも、火災の見舞うところとなり、ことごとく灰となってしまった。

しかし、戦国の世となっても、武田信玄親子、徳川家康などの信仰が深く、これらの武将も、おまいりになられて、その度ごとに、武運長久を祈られたとのことである。徳川の世となっても、代々の将軍より社領を寄付され、毎年祭礼の絶えることはなかった。

明治維新において、神仏を合わせまつることがなくなってから、明治8年2月18日に村社となり、以来、多くの移りかわりを経て今日に至ったが、正月・5月・9月の例祭は、曽我兄弟の後世にのこるりっぱな行いを偲んで毎年盛大に行われる。(以上)

沼津市市史編纂委員・民俗専門委員 
益田 實



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